傘の中、降るのは

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「パーパ!!」

 突然耳に飛び込んできたフィガロの歓声に、我に返った。

 あの子がおとなしくゲームに興じていたのを良いことに、ぼくは随分と長い間、思考の海に沈んでいたらしい。洗濯機はとうに脱水を終えて、ごうんごうんとくぐもった音を立てながら乾燥を始めている。

 慌てて居間へ行くと、バンコランが上着も脱がずにフィガロを抱き上げていた。時計を見ると、まだ三時前。

「おかえりなさい。随分早いね」

「ああ」

 と頷きながら、葉巻に火を付ける彼の腕しがみつき、フィガロがぼくに向かってパパが帰ってきたよと主張する。幼くても賢い子だ。常日頃にはない帰宅時間だとわかっているんだろう。こんなにも早く彼が仕事から戻るなんて、一年に一度もないことだ。

「よかったね、フィガロ。パパが早くに帰ってきてくれて」

「マーマ?」

「うん、ママも嬉しいよ」

 ぼくとフィガロのやりとりに、バンコランの目が少し細くなる。本当にささやかだけど、深く愛情を感じる微笑。ぼくは彼のこの表情がとても好きだ。

「明日、フランスへ飛ばねばならん」

だからこそ、分かってしまう。

「急だね」

「ああ」

 葉巻の煙を吐き出す仕草に隠した、一瞬の苦い顔。 

「お仕事、大変なの? 長くかかりそう?」

「いや。そこまでの案件でもないが、私が行かねばどうにもカタがつかないらしい。一週間とかかりはしないだろう」

 そんな顔をするなら、嘘なんてつかなきゃ良いのに。

 彼は気づいていないんだろうか。稀にでる、隠し事をする時いつもより言葉数が二言三言多くなる癖や、隠しきれない表情を煙と一緒に吐き出してしまう仕草に。

 いいや、きっと気づいていない。

 これは、ぼくだけに見せる癖。

 諜報員という仕事上、完璧なポーカーフェイスがとれる彼が、唯一の安寧の場所である自宅で、伴侶のぼくにだからこそ見せてしまう隙。愛され、心を預けられている証拠。こんな時でも、ぼくはそれが嬉しいらしい。どこまでおめでたいのかと、自分でも思ってしまう。

 

 きっと彼は、フランスへ出張になんて行かない。休暇を取って、可愛い少年と浮気旅行へ出かけるのだ。きっとそう、今の時期なら南の方へ。

 普段なら、浮気の気配を感じただけで頭に血が上って、彼を叩きのめしてしまうのに、今日はどういう訳か何も出来ない。バンコランはぼくが気づいていないと思っているのだろう。今からしばらくフィガロと遊んでやるから、お前は家事を片付けてフィガロをマリネラ大使館へ預ける用意と外出の支度をしろと言う。

「折角早く帰ってきたんだ。たまには外での食事も良いだろう」

「でも、こんな急に大丈夫かな」

 彼にデートに誘われた喜びはわいて来ない。いつもなら、すぐさま抱きついて、男らしく優美なラインを描くあの頬にキスの一つでもしているところなのに。かといって、いけしゃあしゃあと浮気旅行に行く前のご機嫌取りに励んでいる彼にクッションやテーブルを投げつけたい訳でもない。ぼくは一体どうしたんだろう。考え事のし過ぎで、気分がおかしな所へ沈み込んでしまったのだろうか。

「あの大使館はどうせいつでもヒマなんだ。気にすることはない」

 憎たらしくて愛しい浮気男がひょうひょうと言ってのける。

「そうかな」

 答えながら、フィガロのゲームの相手をしているバンコランの背中を見つめて、抱きつきたいのか蹴り飛ばしたいのかを自分に問うてみる。

「子守のひとつもさせておかんと、時間をもてあまして何かおかしな事をしでかすかもしれん」

「おかしな事をやるのはいつもパタリロでタマネギたちじゃないよ」

「同じようなものだ。少しは働かせておく方が良い」

「じゃあ、電話してみる」

 軽口の間中ずっと考えてみても、やっぱりどうしたいのか分からなくて、諦めて言葉通り電話をかけに行く。

 本当にどうかしている。

 ぼくも、彼も。

 

 
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